今回のセラピーでは絶望を味わいきった時間となりました。
ただただ味わいきった絶望にセラピー後はやっぱり動けなくて、しばらく横にならせてもらいました。
家に帰ってからもしばらくは動けず。
でも気になることがあったので調べ物をしました。
ナチスドイツでの収容所のことです。
調べていて出てきたのはアンネフランクと杉原千畝。
アンネは
ユダヤ人というだけで迫害を受けながらも日記にこう記しています。
「やっぱり人の中には善があると思うの」
杉原千畝は国の命令に背いても迫害されるユダヤ人を助けました。
「見捨てるわけにはいかない。一人の人間としての精神で助ける。すべては歴史が判断してくれる」
この二人の精神が自分にも宿っているように思いました。
二人は自分が正しいと感じた道を邁進します。
でも信じた先に待っていたのは犠牲。
自身の死や世の中からの迫害、大切な人の死。
そこに絶望は本当になかったのだろうかと考えずにはいられません。
絶望の闇に彼らが飲み込まれなかったのか。
そればかり気になってしまいますが、視点を大きなところに変えてみると
二人の人生は歴史という大きな時間の流れに影響を与えるための選択だったのかもしれません。
人権の尊重と平和を訴えかける…
実際にアンネの日記には
「死んでも生きたい」と書かれていたそうです。
そう思うと絶望も人生設計のプログラムのひとつに過ぎないのかもしれません。
(恐ろしく悲しいですが)
そして絶望を味わいきったら絶望の悲しみに支配される瞬間はなくなったように思います。絶望が消えたわけではないのです。
絶望も持っていますがそれは心の棚に仕舞った感覚です。
絶望を味わった感謝と絶望も自分の一つだから持ちながら生きたいのだと思います。
そして私たちの時間はとても短いから、人生の心理や本質を学ぶにはあまりにも短いのだと感じずにはいられませんでした。